シリアルキラー ~テッド・バンディ~

どーも皆さん。

今日は、テッド・バンディについてお話したいと思います。

まずは、彼をしるために幼少期から。

 

1946年11月24日

テッド・バンディことセオドア・ロバート・カウエルは、1946年11月24日にバーモント州バーリントンで未婚の母から生まれました。

母は、名をエレノア・ルイーズ・カウエル、通称ルイーズといいました。

 

父親ははっきりしておらず当時社会的に不名誉とされていた婚外子だと後ろ指をさされないようにテッドを育てており、幼いテッドは祖父母のことを両親、母のことを姉だと教えられていました。

(最終的に真実を知ります。自分の本当の父親について語らず、探したければ探せという母親の姿勢に、バンディは死ぬまでずっと怒っていたそうです。 )

 

親戚の中には、ルイーズが虐待を受けていてテッドの父親が、

彼女自身の父親サミュエル・カウエルだという人間もいました。

この説に物的証拠はないらしいですが。

 

これが本当なら最低な父親ですね(:_;)

 

 

 3歳までテッドはフィラデルフィアにある母方の祖父の家で生活しました。

 

いくつかの取材においてバンディは祖父母について詳しく語り

ルールには祖父の中に自分を見出し、尊敬していて、いつもくっついていたと話していたそうです。

しかし1987年に、家族はテッドを連れて弁護士に祖父サミュエルの素行について相談をしていました。

サミュエルが家庭を牛耳って威張り散らし、黒人やイタリア人、カトリックユダヤを嫌悪している、妻や飼い犬を殴り、近所の猫の尻尾をつかんで振り回すというものだった。

ある時はルイーズの妹ジュリアを、寝坊したという理由で階段の踊り場まで突き落としたそうです。

目に見えない存在に向かって大声を出すことがあり、テッドの父親が誰なのかという話が持ち上がったことに激昂して暴れたことも確実なものだけで一回はあったそうです。

 

バンディによれば、祖母はおどおどした様子で言われるがままの女性で

鬱状態の改善のため定期的に電気けいれん療法を受けていて、老いるにつれて外出を怖がるようになったそうです。

 

 

電気けいれん療法。。。聞くだけでいたそうです。

 

テッドは、幼いころから、周りを困らせるような行動をとることがあり

ある日、叔母のジュリアがうたた寝からふと目を覚ますと、カウエル家の台所にあった包丁が自分のまわりに置いてあり、3歳の甥っ子は彼女が寝ていたベッドのそばで微笑んでいた、とジュリアは言っていたそうです。

 

1950年、ルイーズは名字をカウエルからネルソンに改め

何人もの家族の強い勧めにより息子を連れてフィラデルフィアを離れワシントン州タコマに移り、いとこアラン・スコットとジェーン・スコットと同居しました

1951年、メソジスト教会主催のお見合いパーティーで、ルイーズは病院の調理師だったジョニー・カルペッパー・バンディ(1921 - 2007年)と出会った。

この年の後半に2人は結婚し、ジョニー・バンディは正式にテッドを養子とした

ジョニーはルイーズと4人の子をつくり、実の子供といっしょにテッドもキャンプなど家族の行事に連れて行き、彼を家族として扱おうと努めたが、テッドは心を開かなかった。

後にテッドはガールフレンドに、ジョニーは本当の父親ではないだけでなく「あまり気が利かず」「稼ぎもよくない」と不平をこぼしていたそうです。

 

なんだか切ない。ジョニーに心を開いていたらまた違っていたかもしれませんね。

 

1965年に高校を卒業。

その後、ピュージェットサウンド大学に1年間在籍。

1966年にはワシントン大学に転学。

翌年から彼は、ワシントン大学の同級生の女性ブルックスと付きあい始めました

1968年の初めにワシントン大学を中退して最低賃金の仕事を転々としました。

ネルソン・ロックフェラーが大統領選に出馬した時は、シアトル事務所でボランティアスタッフもしていて、アーサー・フレッチャーがワシントン州の副知事に立候補した際は、その運転手兼ボディーガードを務めていました。

 

その後まもなく、ブルックスはバンディの幼稚さと向上心のなさに不満を抱き、恋愛関係に終止符を打ってカリフォルニア州の実家に帰ってしまった。

精神科医のドロシー・ルイスは、この破局こそが「おそらく彼の人格形成上の転機」だと後に指摘しました。

ブルックスに振られて傷心のバンディは、コロラド州に旅行に出かけ、さらに東に向かってアーカンソー州フィラデルフィアの親戚を訪ね、テンプル大学に1学期(セメスター)通っている。

 

(1969年の初めに、バンディはバーリントンの出生登録所に行き、自分の父親が本当はサミュエルではないことを初めて知った、とルイスは考えている。)

 

バンディは1969年の秋までにはワシントン州に戻り、エリザベス・クレプファーと出会っている。

彼女はユタ州オグデン出身の離婚経験者で、ワシントン大学医学部で秘書をしていた。

2人の激しい恋愛は、1976年にバンディがユタ州で初めて投獄されてもなお途切れることなく続いた。

 

 

1970年代半ばにはバンディは目標も定まりワシントン大学に復学

今度は心理学を専攻している。

彼は優等生として表彰され、教授陣からの評判もよかった。

1971年には、シアトルの自殺防止ホットライン緊急センターで

職を得るとともにアン・ルールと知り合い、また同僚となった。

ルールはシアトルの元警察官で、犯罪ルポライターになる夢を持っていた。

彼女は後に、決定的なバンディの伝記である『私のそばの他人』(The Stranger Beside Me)を書くことになる。

当時の彼女はバンディの人格に何ら嫌悪感を抱くことなく

彼のことは「親切で気遣いもあり、親身になってくれる」と評していた。

 

1972年にワシントン大学を卒業。

州知事のダニエル・J・エバンスの再選を目指した選挙戦に参加し

学生を装ってエバンスの対立候補である元知事のアルバート・ロゼリーニの行動を追いかけ、街頭演説を記録して分析のためにエバンスの選対チームに情報を送った

皮肉なことに、エバンスはバンディをシアトルの犯罪防止諮問委員会の一員に任命した。

エバンスが再選を果たすと、バンディは共和党ワシントン支部長のロス・デイビスに助手として雇われた。

デイビスはバンディを気に入っており、

彼について「頭は良いし積極的だし……体制の信奉者である」と語っていた。

1973年の初めにピュージェットサウンド大学とユタ大学の両ロースクールに合格したが、入試の点数は凡庸だった。

バンディの合格はエバンスやデイビスワシントン大学の複数の心理学部教授の推薦書のおかげだった。

 

共和党の仕事でカリフォルニアへ出張していた1973年の夏にバンディはブルックスとよりを戻している。

彼女にはバンディが法曹界・政界でキャリアを築きつつあるように映り、真面目でひたむきな人間になっていたのに驚かされた。

バンディはクレプファーとも交際を続けたが、彼女たちはお互いの存在に気づくことはなかった。

1973年の秋にバンディはピュージェットサウンド大学ロースクールに入学するが、ブルックスと関係を続けていた。

彼女は何度かシアトルまで飛んできてバンディとともに時間を過ごした。

2人は当時結婚を相談しており、一度はデイビスに婚約者として彼女を紹介していた。 

 

 

しかし1974年1月に、バンディは突然一切の連絡を絶った。

彼女からの電話にも手紙にも、返事を返していない。

1ヶ月後にようやく一度だけ電話がつながったので、彼女はなぜバンディが説明もなく一方的に関係を終わらせたのか知りたいと伝えた。

バンディは抑揚のない、落ち着いた声で「ステファニー、何のことだかまるでわからない」とだけ答えて電話を切った。

彼女にはバンディからの連絡は二度となかった。

後にバンディは「彼女と結婚することもできたと自分に証明したかった」と説明している。

ブルックスはのちに回顧して、交際そのものが計画的であり最後にバンディが彼女を振ることは予定通りのことで、1968年に彼女のほうから振ったことに対する復讐だったのだと結論づけている。
この頃までにはバンディはロースクールの授業をサボるようになっていて、4月になるとまったく大学に行くのをやめてしまった。

 

ちょうどその頃、アメリカ北西部では若い女性の失踪が続いていた。

 

すごい執念ですね。どうしても自分を振ったことを許せなかったんでしょうね~(-_-;)

ちょっと長くなるので殺人については、

次の記事で紹介したいと思います。

 

お付き合いいただきありがとうございます。

それでは、ばいなら~。